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大日本航空記 大正編

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帝都訪問飛行
大正元年10月、航空水準引き上げのため、
国民の航空機に関する関心を高めようと、
徳川好敏操縦将校が所沢飛行場から帝都へ向けて飛行した。

青山御所でご観覧になられた天皇陛下は、
先帝存命中にこの様子を見ていただけていたら、
きっと満足してくれただろうと云うような御感想をもらされた。


海軍飛行訓練開始
大正元年11月以降、欧米より帰還した飛行将校の指導の下、
海軍将校下士官に対し飛行訓練を開始した。
又、外国飛行機を輸入して横須賀海軍工廠にて研究し、
半年後には国産機体を実用するに到った。
大正2年6月には爆弾投下の試験を行った。


海軍大演習観艦式
金子、河野両大尉が飛行を実施して陛下の御展覧を賜った。


陸軍気球隊移転
中野にあった陸軍気球隊が所沢へ移転。


西武平野陸軍特別大演習
大正元年11月、西武平野(西武関東地方)で、陛下初の御統監の陸軍特別大演習が催される。
陸軍航空はこの演習にはじめて参加することとなり、
研究会と気球隊の総力を挙げて3機の研究会式航空機を完成させた。

操縦手は徳川大尉と木村中尉、偵察手に小澤寅吉大尉以下三名、
航空機は研究会式とブレリオが各1機ずつ参加した。

演習3日目の11月17日、陛下は気象観測台より御統監に相成り、
航空記、飛行船の飛行せる様を御展覧遊ばされた。

午前には木村中尉と小澤大尉の搭乗せる研究会式3号機が、
川越方面より多摩川方面へ移動中の軍を偵察することとなっていた。
然し、同機は川越方面へ飛行中、発動機に故障を生じて、
中福(所沢、川越間の福原村)付近の畑に不時着することとなった。
両搭乗員は、現地で速やかに発動機を修理して再び離陸して帰還。
無事に着陸を果して陛下より御諚を賜った。



午后には益田済大尉の式せるパルセバール飛行船の飛行や、
徳川大尉の離陸、木村中尉の波状飛行、
岡、徳田、山瀬中尉、武田、阪本少尉の飛行が行われ、
研究会幹事井上仁郎少将が御説明申し上げ、陛下より種々の御下問あり。
陛下よりこの演習に於ける我国航空の発展に対し、
「実に朕が軍隊にも比類なき武器と優秀なる操縦者を得たるよ。」
との御諚を賜った。

又、渡邊宮内大臣より
「今日は日後期を御展覧になって、非常に御満足渉らせられます。
飛行船の航空は東京に於て御覧遊ばされ、非常に御興深く拝されました。
特に木村中尉が飛行機墜落の際巧みに危険を免れたるに就いては
詳細報告をお聞き遊ばされてをりました。」
とのこと。


我国初の航空殉難者
大正2年2月28日、青山練兵場での飛行演習の帰途、
木村鈴四郎・徳田金一両中尉の乗る「プレリオ11−2bis」機が、
入間郡松井村上空飛行中、強風により左翼を破壊され、
入間郡松井村高度300mより山林に墜落し殉職した。

翌年1月11日にやまと新聞によって集められた義捐金で記念塔が建てられた。


対独戦に於ける我が航空機
我国では陸軍は有川鷹一大佐を隊長とする臨時航空隊を編成。
(『モーリス・ファルマン(モ式)』飛行機4機、『ニューポール』飛行機1機、繋留気球1)
海軍は大正3年8月23日、横須賀海軍工廠で運送船『若宮丸』に水上機搭載設備を整備し、
青島攻略戦に水上機母艦『若宮』に『モーリス・ファルマン(モ式)』飛行機4機、
予備機ルンプラー『タウベ』飛行機1機を搭載し参戦したのが初の実戦となった。



主任務は空中偵察で、僅かに空中戦闘と爆撃(甚だ稚拙ではあったが)を行った。


当時の陸軍機総数は16機、飛行将校は14名、偵察将校12名。
当時の海軍機総数は12機、飛行将校は15(11?)名。


陸軍航空大隊
大正4年12月、所沢に移転した気球隊は、飛行・気球夫々1中隊からなる航空大隊に改編。


青島攻略に於ける海軍機の活動
水上機母艦『若宮』搭載の海軍機は偵察、着弾観測、
爆撃等の作戦に従事し、独逸軍イルチス砲台を沈黙せしめた。


我国初の航空郵便
大正4年2月、陸軍のモーリスファルマン機によって所沢-大阪間郵便飛行が行われた。



邦人飛行家西部戦線を翔る
我国の飛行家、小林祝之助、男爵滋野清武、磯部オノ吉、石橋勝浪等は、
仏蘭西陸軍飛行隊に義勇兵として志願入隊し、
独逸陸軍飛行部隊と激戦を繰り広げた。

小林祝之助は大正7年9月7日、西部戦線コーブルに於て、
機体に敵弾命中し万事休すと云う状況の中、
上空1万フィートより降下し壮烈なる戦死を遂げた。

滋野清武は複葉機『わか鳥』号を自ら設計、搭乗するほどの熱烈な飛行家で、
大正3年末、戦闘機乗りになる為に仏陸軍飛行隊に入隊。
前線でヴォワザン、ニューポールなどの新鋭機を駆って功績を挙げ、
大正5年1月にはレジオン・ドヌール勲章を受章した。


海軍航空隊新設予算成立
大正5年初旬、海軍航空隊3隊新設の予算が成立し、
航空軍備の充実へ一歩を進め、
同年4月に海軍初の常備航空隊として横須賀航空隊が誕生した。


陸軍航空大隊、気球隊分離と拡充
大正6年12月、気球隊を分離し、2個航空大隊を編成。
翌7年12月、一個飛行大体を増設し、以後大正9年迄かけて部隊の拡充を行う。


陸軍飛行隊シベリア出兵
大正7年8月〜11年10月、途中部隊の改変を行いつつも、
偵察機31機、戦闘機15機が出動した。

沿海州、黒龍州、サバイカル州に基地を置き、
偵察、作戦指導、布告宣伝文の撒布、救援連絡等を行った。

当時「零下30度以下にては飛行し難し」といわれていたが、
我が軍は零下50度の酷寒に耐え、時に3時間以上もの飛行を敢行した。



陸軍航空団伊國派遣

大正7年10月、伊國より我国へ応援助力を求めてきたこと、
我が軍が実戦経験を積む機会を求めていたことが合致し、
操縦将校20名、職工100名よりなる航空団を組織して、
伊國へと派遣することとなった。

一行は伊軍戦線へ出動予定であったが、
11月11日に休戦となり、参戦の機会は失われた。

其の後約10ヶ月、伊國はカシノコスタ飛行学校にて、
実戦経験豊富な伊軍将校より飛行技術の伝習を受けて帰朝した。


佛國フォール航空教育団来日


大正8年1月、仏蘭西よりフォール陸軍砲兵大佐率いる総数63(57?)名の遣日軍事航空使節団が来日した。

フォール航空教育団は新型のサルムソン2A2偵察機、ニューポール24戦闘機、
スパッド13戦闘機、ブレゲー14B2爆撃機をもって、
操縦、射撃、爆撃、偵察観測、気球、機体製作、発動機製作、航空機検査の八部門を、
各務原、浜名湖、三方原、下志津、所沢、熱田、東京の陸軍航空部隊に教授した。
受講者は井上幾太郎陸軍少将を委員長と頂く臨時航空術練習委員。



之は帝国陸軍が仏蘭西から凡そ100機の新型飛行機を購入する案があがった時に、
仏国クレマンソー首相兼陸相が仏蘭西政府より航空使節団を派遣することを即断したことが始まりである。

フォール航空教育団は当初3ヶ月の派遣予定であったが、
大佐の働きかけにより延長され、1年9ヶ月の長きに渡って我国の航空教育に当った。

操縦班 岐阜県各務ヶ原
  宙返り、横転、反転等の特殊飛行、空中戦闘の概要

偵察観測班 千葉県下志津原
  偵察、射撃観測、空地連絡、航空写真、航空無線

空中射撃班 愛知県新居町
  地上に於ける予習教育、機上教育

爆撃班 静岡県三方ヶ原
  地上に於ける予習教育、機上教育(当時は水兵爆撃のみ)

機体班 埼玉県所沢
  飛行機工術

発動機班 名古屋市熱田
  発動機工術、材料等の教育

海軍飛行艇班 神奈川県追浜
 飛行艇の組み立て、操縦


陸軍航空部創設
大正8年4月、陸軍航空部(技術部、検査部、補給部等)が創設され、
11年の長きに渡る栄光の陸軍臨時軍用気球研究会は廃止された。

所沢に陸軍飛行学校創設
大正8年4月15日、埼玉県入間郡所沢村に陸軍飛行学校が創設された。
教育部では、高等操縦術、機関工学/整備、偵察、射撃、爆撃などを学生に教え、
研究部では、機体、エンジン、装備品などの研究や実験、審査を行った。


臨時海軍航空術講習部設立
大正10年、臨時海軍航空術講習部を設立し、
第一次大戦に従軍せる英国大佐センピル以下30名を招聘し、
霞ヶ浦、横須賀にて航空術の教授を受けた。


霞ヶ浦航空隊設立
大正11年11月、茨城県霞ヶ浦に設立。
後には予科練なども置かれ、海軍航空のメッカとなる。
ツエツペリン伯級飛行船が寄航した場所としても有名。


海軍、英國航空団招聘
大正11年、英國よりセンビル男爵率いる20余名の航空団を招聘。
霞ヶ浦にて水上機、陸上機、飛行艇の操縦、離着艦、偵察、写真、
雷撃、機体、発動機、落下傘等種々の指導を受けた。


陸軍、仏國将校招聘
大正11年より翌12年、仏國将校を招聘し、航空戦術の教授を受ける。


航空母艦『鳳翔』竣工
大正11年12月27日、空母として設計建造された世界最初の艦。


陸軍航空隊関東大震災に出動
大正12年9月1日〜、関東大震災に伴い、被害地の状況観察、命令伝達、連絡、鎮撫等、
種々の任務をおって、飛行日数30余日に渡り活動した。


日本人初の空母着艦
大正12年3月16日、吉良俊一大尉が十年式艦上戦闘機を以て、
着艦実験に成功し、金杯賞を賜られた。


陸軍下志津、明野分校独立
大正13年5月、所沢陸軍飛行学校分校の下志津、明野両分校が独立。
下志津は偵察、明野は空中戦闘、所沢は其の他操縦及び機関等を教えることとなった。


陸軍航空本部
大正14年5月、これまでの陸軍航空部を拡充し、陸軍航空本部とする。

飛行機射撃の研究
飛行機が地上部隊の脅威となるに従って地上部隊から飛行機を射撃する方法、
即ち対空射撃の方法が研究されるようになるのは当然の流れである。
大正14年版の歩兵教程には歩兵銃による射撃方法が記されている。





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